このエントリーでは、「主張」とは何かを学びましょう。
あなたが何かを論ずるなら、そこには主張が必要です。しかし、「主張」という言葉は一般的にネガティブな意味で使われることもあり、主張とは何か、どのような言説が主張になれるのかは、あまり正しく理解されていません。これを機に、ロジカルシンキングにおける(議論を分析する文脈、という意味)「主張」の意味を押さえてください。
では始めましょう。
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一般的な「主張」
まずは「主張」という言葉の一般的な意味を確認しましょう。辞書には以下のように書かれています。
このように、一般的に「主張」と言う場合、それは強めの意見という意味です。
どちらかといえば、ネガティブな意味で使われることが多いですね。「自己主張」、「主張が激しい」など、どれも良いイメージはないでしょう。また、「主張」は英語では「claim(s)」ですが、日本語の「クレーム」には悪いイメージしか持たないですよね。日本では主張するより、空気を読むことが好まれるからでしょうか。
とりあえず、このような意味・イメージはすべて忘れてください。
詳しくは後述しますが、ロジカルシンキングにおける「主張」は、一般的な意味とはかけ離れています。ネガティブな意味はまったくないどころか、むしろ必要不可欠なものです。
一般的な「主張」の意味が頭に残っていると、ここからの説明が理解しにくくなります。ここで一旦、頭をリセットしておいてください。
ロジカルシンキングにおける「主張」とは
本題に入って、ロジカルシンキングにおける「主張」を説明します。これ以降は、このような(一般的な意味とは異なる)「主張」のことを、単に「主張」と表記します。
まずは例文を見てください。ミステリー小説風です。
いつの間にか、私の冷蔵庫のプリンが食べられている。犯人は誰か?
犯人は安田だ。
私がそう考える根拠は以下のとおりだ。
まず、証拠がある。安田の部屋から、プリンのゴミが見つかった。
そして、安田には動機もある。彼はプリンが大好きなんだ。
太字にした部分、すなわち、パンダによる「犯人は安田だ」という発言が、この会話における主張です。そうなる理由は、この発言が論点に直接的に答えているからです。
このように、主張とは、論点に対する直接的な答えです。まずはこの定義を押さえてください。
主張:論点に対する直接的な答え
この定義から導かれる、ある言説が「主張」であるための条件は以下の3つです。
- 論点が存在する
- 論点に直接的に答えている
- 議論の余地がある
順に説明します。
主張の条件①:論点が存在する
主張の1つめの条件は、論点が存在していることです。これは条件というより、前提ですね。主張を「論点に対する直接的な答え」と定義する以上、主張はそれ単体では存在できません。常に論点が先行します。
ここでの「論点」とは、要するに問い(疑問)のことです。何か分からないことがあって、それに対する答えを問いかけるのが論点です。そして、その論点にズバッと答えている言説が主張です。
なお、「論点」は「テーマ」と読み換えても問題ありませんが、オススメはできません。そのあたりの話は脱線になるので、別エントリーで詳しく説明しています。もし「論点」の理解が曖昧な人は、以下のエントリーを読んでから先に進んでください。
話を戻して、先ほどの例文で確認しましょう。
いつの間にか、私の冷蔵庫のプリンが食べられている。犯人は誰か?
犯人は安田だ。
私がそう考える根拠は以下のとおりだ。
まず、証拠がある。安田の部屋から、プリンのゴミが見つかった。
そして、安田には動機もある。彼はプリンが大好きなんだ。
この場合、論点は「犯人は誰か?」です。犯人が分からないから、それを問いかけているわけですね。ミステリー小説の論点は常にこれです1。
そして、「犯人は誰か?」が論点だから、「犯人は安田だ」が主張になるのです。「犯人は安田だ」という言説は、論点に直接的に答えていますよね。
逆に言うと、もし論点が「犯人は誰か?」でないのなら、「犯人は安田だ」も主張ではなくなります。以下の例を見てください。
腕立て伏せでもするか。何回やるべきだろう?
犯人は安田だ。
(ヤバすぎて草)
今度は、話がまったく噛み合っていません。クマは腕立て伏せの回数が気になっているわけなので、主張するなら回数について答えなければなりません。しかし、パンダはなぜか犯人について語っています。
つまり、パンダの発言は、クマの提示した論点とはズレています。このような状況では、もはやパンダの発言を分析することはできません。当然、何が主張かも決めようがないわけです。
主張の前に、論点が存在する
論点が存在する状況
では、「論点が存在する」とは、具体的にどのような状況のことなのでしょう?
論点が存在するときには、以下の2点が成立しています。
- 何か、答えを知りたいことがある
- その答えは、まだハッキリしていない
これは逆から考えれば明らかでしょう。私たちは知りたくもないことを問いかけません。また、答えが明らかなことも問いかけませんよね。
つまり、上の2点を満たす状況のとき、そこには論点が存在しています。
一人で考えているときは、これ以上でも以下でもありません。上の2点が満たされていれば、あなたの中には論点が存在します。
自分以外の他者が想定される状況だと、「議論(をしている状況)」と「論説文(を書いて/読んでいる状況)」がそれに該当します。
まず、上の2点を満たす状況で人とやりとりすることを「議論」と呼びますよね。最近は「議論」を口喧嘩みたいなものだと捉える風潮もありますが、本来の「議論」とはそういうものではありません。議論とは、問いに対する答えを探す・合意するために行うものです。
「論説文」はもっとダイレクトで、「筆者が、ある論点に対して自分の主張を提示する文章」が、「論説文」という言葉の定義です。読者に対して、自分の主張の正しさを説得するわけですね。
論点が存在しない状況
上記に当てはまらない状況では、そこに論点は存在しません。具体的には、以下のような状況・形式です。
- 文学的文章(人を感動させることを目的とする文章)
- 小説、詩、俳句など
- 連絡を目的とする文章
- 例:「明日は避難訓練です」というメール
- 普通のおしゃべり
- (ほとんどの)漫画
- 漫画の大半は、人を感動させることを目的としている
- ただし、主張や説明を主目的とする漫画もある(例:「マンガで分かるXXX」)
ここに挙げたものはすべて、何かに答えを出そうとしているわけではないですよね。よって、論点は存在しないし、主張も存在しません。
ただし、小説や漫画といった体をとりながら、実態としては作者が主張している(ように見える)ケースはあります。よくあるのは、キャラクターを作者の代弁者にして議論させる手法ですね2。
このような事情があるため、本質的には、形式から論点の有無を決めるのではなく、作者の目的がどこにあるのかを判断するしかありません。形式はあくまで、作者の目的を判断するためのヒントです。
判断の結果として、作者が何を論じているなら、その論点を明確にしましょう。それに対する直接的な答えが主張です。
主張の条件②:論点に直接的に答えている
主張の2つめの条件は、論点に直接的に答えていることです。
ここでの「直接的に答えている」とは、言語のルールのことです。以下の表を見てください。
このように、疑問文(論点)と、その直接的な答えになれる言説(主張)には対応関係があります。表の左側の問いが発せられたら、「直接的な答え」になれるのは右側の言説だけです。これは理屈ではなく、そういうものです。
実際に、先ほどの例で確認しましょう。
いつの間にか、私の冷蔵庫のプリンが食べられている。犯人は誰か?
犯人は安田だ。
私がそう考える根拠は以下のとおりだ。
まず、証拠がある。安田の部屋から、プリンのゴミが見つかった。
そして、安田には動機もある。彼はプリンが大好きなんだ。
先述のとおり、論点は「犯人は誰か?」です。上の表だと「Who」を問いかける疑問文ですね。
表の右側にあるとおり、この疑問文の直接的な答えになれるのは人物を特定する言説だけです。よって、「犯人は安田だ」が主張だと決まるわけです。
このように、疑問文のタイプによって、直接的な答えになれる言説のタイプは決まっています。そのタイプに合致する言説を、主張と呼ぶわけです。
なお、上の表の詳しい説明は以下のエントリーで行っています。表がピンとこなかった場合は、こちらを参考にしてください。
論点が明示されない状況
ここで、論点が明示されない場合の主張について考えておきましょう。
一般に、議論や論説文では、論点が明示されるとはかぎりません。どちらかといえば、論点が明示されないことのほうが多いでしょう。以下の例を見てください。
犯人は安田だ。
私がそう考える根拠は以下のとおりだ。
まず、証拠がある。安田の部屋から、プリンのゴミが見つかった。
そして、安田には動機もある。彼はプリンが大好きなんだ。
今度は、いきなりパンダが話を始めています。これは会話調にしているので違和感があるかもしれませんが、実際、このような論説文は多々あります。「何を論じるか」を述べる前に、いきなり「私の言いたいこと」を述べているわけですね。
このように論点が明示されない状況において、「主張」はどのように定義されるのでしょう?
結論から言うと、定義は変わりません。論点が明示されていない場合でも、「主張」とは論点に対する直接的な答えのことです。
どういうことでしょうか?
まず、このような状況は、先ほどの「論点が存在しない状況」とは違います。パンダは明らかに「犯人は誰なのか?」を論じていますよね。これは「論点が存在しない」わけではなく、「論点が明示されていない」だけです。もし改善するなら、以下のようになるでしょう。
これから、「クマのプリンを食べた犯人は誰か?」という論点に対して、私の考えを述べる。
犯人は安田だ。
私がそう考える根拠は以下のとおりだ。
まず、証拠がある。安田の部屋から、プリンのゴミが見つかった。
そして、安田には動機もある。彼はプリンが大好きなんだ。
ちょっと不自然なほど形式ばってしまいましたが、分かりやすくはなりましたよね。
しかし、このような改善をしなくても、自然と「何を論じているか」が分かることも多いです。実際、改善前の発言でも、あなたは違和感なく「パンダは犯人について論じている」と分かったはずです。
なぜ、こんなことになるのでしょう?
答えは、先ほどの表です。論点と主張は対応関係にあるので、主張さえ分かれば論点を推定できるのです。今度は、表を右から左に辿るわけですね。
このような「主張からの論点の推定」は、私たちが無意識レベルで行っていることです。「言語能力」や「読解力」と呼ばれるモノの、コアな部分と言えるでしょう。
論点が明示されない状況でも、主張から論点を推定できる
論点を明示しなくていいのか
ただし、これは「論点を割愛しても問題ない」ということを意味しません。むしろ、論点を割愛することはまったくオススメできません。絶対にやめましょう。あなたが何かを論ずるときは、常に論点を明示すべきです。
理由はシンプルに「論点が明示されないと分かりにくい」ということですが、もう1つ大きな理由があります。主張から論点を推定できない人(いわゆる「話の噛み合わない人」)が、それなりの割合でいるのです。逆に、論点を割愛するメリットは特に見当たらないので、とにかく論点を明示しましょう。
あなたが主張するときには、常に論点を明示するべき
一旦まとめると、主張そのものを考えるのではなく、論点を考えるべきです。
あなたが何かを論ずるなら、主張(言いたいこと)ではなく論点(論じようとする問い)から始めましょう。誰かが何かを論じているなら、その人の主張に飛びつくのではなく、「この人は何を論じているのか」を考えましょう。こうすることで、全体の議論をスッキリ整理でき、主張も明確になります。
主張の条件③:議論の余地がある
主張の3つめの条件は、議論の余地があることです。
「議論の余地がある」とは、具体的には「他者(あなた以外の誰か)が否定できる」ということです。つまり、あなた以外の誰かが否定できる言説しか「主張」とは呼べません。
先ほどの例で確認しましょう。
犯人は安田だ。
私がそう考える根拠は以下のとおりだ。
まず、証拠がある。安田の部屋から、プリンのゴミが見つかった。
そして、安田には動機もある。彼はプリンが大好きなんだ。
いや、犯人はお前だよ。私はお前が食べるところを見てたんだ。素直に謝るか、カマをかけてみただけさ。
このケースでは、パンダは「犯人は安田だ」と主張しましたが、クマは「犯人はパンダだ」と主張しています。パンダの主張を、クマは否定したわけですね。このように、主張とは他者による否定の余地がなければいけません。
「主張」とは、他者が否定しうる言説である
こうなる理由は後述するので、まずは「(他者が否定できないため)主張にならない言説」の具体例を見ていきましょう。
主張にならない言説①:感情
まず、感情は主張になりません。感情は他者が否定できないからです。例を見てください。
「好き/嫌い」といった感情は、当の本人以外が否定する余地がありません。このような感情の発露を「主張する」と表現することもありますが(例:愛を主張する)、これはあくまで文学的な言い回しです。感情は主張になりません。
感情は主張にならない
「感情」とは何か
ここでの「感情」とは、発信する本人にしかその正否が決められない言説全般のことです。
ただ、この定義では分かりにくいですよね。以下に主要な「感情」をまとめておいたので、これをすべて覚えてください。
- 喜怒哀楽:私は嬉しい/悲しい、私は楽しい/怒っている
- 好悪:私はXが好き/嫌い
- 恐怖:私はXが怖い
- 希望:私はXしたい/したくない
- 信念:私はXであると信じている
- 体の感覚:(私は)ドキドキする、(私は)気持ち悪い、(私は)頭が痛い
これらの言説は他者が否定できないことを確認してください。すべて、言葉にされた瞬間に正しいことが確定します。
例も見ておきましょう。以下のように、感情を他者が否定すると完全におかしなことになります。
このように、感情を他者が否定することはできません。
何が「感情(他者が否定できないこと)」であるかを判断するお手軽な境界線は、あなたの皮膚です。あなたの皮膚より内側で起こる「観察できないこと」は、感情に分類されます3。
また、皮膚の内側にあることを表現する関係上、感情(を表す言説)は、主語が必ず一人称(私・僕など)になります。そちらも覚えておいてください。
主張にならない言説②:事実
次に、事実も主張にはなりません。これもまずは具体例を見てください。
これも感情と同じように、「ああした/こうした」という事実(見た/起きたこと)は、当の本人以外が否定する余地がありません。よって、事実も原則として主張にはなりません。
ただし、感情と異なり「原則として」という枕詞がつきます。その理由は、事実には他者が否定する余地が少しだけあるからです。具体的には、嘘や認識間違いを疑うことが可能です。例を見てみましょう。
このように、事実には他者による否定の余地が残っています。
しかし、普通はこんなことは疑われないし、ここまで疑われた場合は事実の前に「私は嘘つきではない/見間違えていない」ことを他者に認めてもらう必要があります。これは他者による否定の余地がある(「あなたは嘘つきだ/見間違えている」と他者が言える)ので、立派に主張になります。
事実は(原則として)主張にならない
主張になる言説:意見
では、何が主張になるのかというと、意見です。
「意見」は広く一般に使われる言葉ですが、そこには常に「これが絶対的に正しいわけではない」というニュアンスが含まれますよね。それはまさに、主張であるための条件を満たしています。
実際、「意見」という言葉を辞書で調べると、そこには「主張」という言葉が使われています。
つまり、「ある意見」が「論点に対する直接的な答え」として述べられていると、それは「主張」と呼ばれるということです。意見は他者による否定の余地があるので、主張として成立するわけですね。意見と主張の違いが曖昧だった人は、この整理が分かりやすいでしょう。
真理・真実
余談ですが、主張された意見のうち、誰も否定しきれなかったものは、時を経て「真理」や「真実」と呼ばれるようになります。元々の意見が世の中の法則に関することなら「真理」、事実に関することなら「真実」が使われやすいです。
たとえば、「万物は引力を有している」ことは、元々はニュートンの「意見」でした。これを否定することは可能ですよね(他者は「万物は引力を有していない」と言える)。実際、ニュートンが万有引力を発表したときには、その考えを否定する人もいたわけです。
しかし、科学者たちの諸々の検証を経て、この意見は「正しい」ということになりました。現代ではもはや「万物は引力を有している」は「意見」ではありません。これはニュートンが発見した「真理」です。
このように、ある意見の「他者から否定される可能性」がゼロに近づくと、それは「真理/真実」と呼ばれるようになります。実際、科学者のことを「真理の探求者」と呼ぶことがあるし、コナン君の決め台詞は「真実はいつもひとつ!」ですよね。科学者も名探偵も、「意見」しながら「真理・真実」を探しているわけです。
ただし、日本では「真理」も「真実」もあまり使われません。どちらも「事実」という言葉で代用される傾向があるように思います。英語における「truth」と「fact」がごっちゃになっている状況で、ちょっと1つの言葉に広い意味を持たせすぎな気がしますが、とにかくそうなっています。
また、この話は「真理や真実を否定してはいけない」ということではありません。真理や真実も、元を辿ればただの意見です。今まで誰も否定できなかっただけで、あなたが否定できる可能性はあります。真理を疑ってみるのも悪くないかもしれませんよ。
なぜ主張は「議論の余地がある」必要があるのか
話を戻しましょう。ここまで説明したように、主張は他者が否定できることでなければいけません。
実はこれは、理由があるような話ではありません。「主張」とはそういうものであるという話です。
すでに説明したとおり、主張が存在するためには、論点が存在している必要があります。そして、論点が存在するということは、分からないこと・答えが決まらないことがあるということなのです。
しかし、見てきたとおり、感情や事実にはそれに対応する「分からないこと・答えが決まらないこと」がありません。感情は言葉にされた瞬間に正しいことが確定するし、事実も原則として正しい(嘘や見間違いはない)です。言い換えれば、感情や事実に対応するような論点は成立しません4。
つまり、他者が否定できないことを主張している時点で、論点が存在しないのです。これは主張が存在するための大前提である「論点が存在する」に矛盾します。
ということで、実は「議論の余地がある」という条件は、「論点が存在する」という条件の言い換えでしかありません。ただ、自分の主張をチェックする際には、こちらの条件のほうが使い勝手がよいでしょう。
あなたは、他者が否定できることを主張していますか?
答えがノーなら、あなたが「主張」だと思っている言説は主張ではありません。もう一度、論点から考え直しましょう。
そして、他者による否定の余地があるからこそ、主張の是非(主張は正しいのか)が問われるわけです。それを支えるのが、根拠の仕事ですね。
ということで、次は根拠とは何かを学びましょう。以下のエントリーに進んでください。
また、ロジカルシンキング関連のエントリーは以下のページにまとめてあります。こちらも参考にしてください。
Footnotes
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厳密には、小説の論点ではなく、小説内の探偵にとっての論点です。小説とは物語を描いた文章のことであり、一般論として小説に論点は存在しません。論点がある文章は「論説文」と呼ばれます。 ↩
-
ただ、すべてのキャラクターのセリフは作者の頭からしか出てこないわけで、それがキャラクターとしてのセリフなのか、作者の思考を代弁しているのかを切り分けることは不可能です。私としては、ここに挙げた著作物から無理に作者の主張を読み取ろうとするのは、読者として無粋だと考えています。 ↩
-
たとえ皮膚の内側であっても、観察できることは感情には分類できません。たとえば、「私の大腸にガンがある」は皮膚の内側で起きることですが、カメラを使って観察できるため、感情ではありません。 ↩
-
厳密には、感情や事実を問いかける疑問文を作成することは可能です(例:「私は怒っているか?」)。しかし、そのような疑問文を論点とする意味がありません。 ↩