対人論証・人格攻撃論法など

このエントリーでは、対人論証について説明します。これは一般には「人格攻撃(論法)」と呼ばれるものですが、かなり頻繁に観察される誤型です。

では始めましょう。

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対人論証とは

対人論証とは、ロジックそのものではなく、そのロジックを論じている人に関すること(人格)を議論の対象にすることです

とりあえず例を見てください。

bear

小雨が降ってきたな。傘をさすべきだろうか?

panda

さすべきだろう。濡れると風邪を引くリスクがある。

bear

君はいつも風邪を引いてるじゃん。言うことをきかないほうがよさそうだから、傘をささないことにするわ。

ここでクマがしているのが対人論証です。会話を分析してみましょう。

まず、論点は「傘をさすべきか?」ですね。それに対する2匹のロジックはそれぞれ以下のとおりです。

論者主張根拠
パンダさす。濡れると風邪をひくリスクがあるから。
クマささない。「濡れると風邪をひくリスクがある」と言っているパンダはいつも風邪をひいているから(=パンダの言うことは信用できないから)。

このように、クマの根拠は「パンダの言うことは信用できない」ということです。これは「傘をさすべきか?」という論点ではなく、パンダの人格を問題にしていますよね。このような行為・ロジックが対人論証です。

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対人論証:ロジックそのものではなく、ロジックを論じている人に関すること(人格)を議論の対象にすること(また、そのようなロジック)

「人格」とは

ここでの「人格」とは、当サイトで「ブランド」と呼んでいるものだと考えて問題ありません。以下のスライドを見てください。

ブランドの構造

このように、「人格」とはその人のスペック・外見・所作か、その人がこれまであなたにしてきたこと(行動履歴)から構成されます。さらに細かい要素は以下の表にまとめました。

ブランドの形成方法

当エントリーでは「なぜ、これらを根拠にすることが誤りなのか」に集中するため、上記の画像に関する説明はしません。詳しく知りたい方は以下のエントリーを読んでください。

なぜ対人論証は誤りなのか

なぜ、対人論証は誤りなのでしょう?

これは直感的には理解しにくいことです。ロジックの是非を検討するとき、論じている人の人格がまったく気にならないという人は存在しないでしょう。誰だって、ロジックを検討する以前に、「知り合いなのか」、「信用できる人なのか」といったことが気になるものです。

しかし、人格は論点に関係ありません。関係ないことは妥当な根拠とは見なせないので、人格を根拠にするロジックはすべて誤り(非合理)です1

こう言い換えてもいいでしょう。もし人格を根拠に組み込むことが妥当なら、その根拠は万能です。たとえば、最高レベルの人格の人(例:芸能人なみの外見のノーベル賞受賞者)がいたら、その人の言うことはすべて正しいということになりますよね。逆に、最低レベルの人格の人の言うことは、何ひとつ認められません。

それはつまり、その人を神様(逆なら悪魔)だと見なしているのと同じです。神様の言うことを正しいと見なすのは、信仰であって思考ではありません。思考したいなら、人格とロジックは切り離す必要があるのです。

人格を問題にする行為の呼び名

人格を問題にする行為には「対人論証」以外にも多くの呼び名が存在します。以下のスライドにまとめました。

対人論証・人格攻撃論法など

横軸は「議論における行為か、そうでないか」の分類で、縦軸は「人格を根拠に相手(ロジック)を肯定するか、否定するか」の分類です。

内容に関してはスライドを見てください。ここでは、注意が必要な点を説明します。

注意点①:人格を根拠にロジックを肯定するのも誤り

まず、厳密な意味での「対人論証」は人格を根拠にロジックを肯定する場合にも当てはまり、それも誤りです。例を見てみましょう。

bear

小雨が降ってきたな。傘をさすべきだろうか?

panda

さすべきだろう。濡れると風邪を引くリスクがある。

bear

君は医者だから、言うこと聞いておこう。傘をさすわ。

このケースでは、クマは「パンダは医者である」ことを根拠にロジックを肯定しています。

先ほどとは肯定・否定が逆転しましたが、「人格を根拠にしているので、考え方が間違っている」という点では同じです。

権威主義

ただ、日本では「対人論証」という言葉は「人格を根拠にロジックを否定すること」という意味で使われるケースがほとんどです。これには以下の理由があります。

まず、そもそも対人論証をしたくなるのは(すべきではありませんが)、ロジックに対立があるときです。相手のロジックに賛成なら、内容だけを見て「私もそう思います」と言うだけですからね。なんとかして相手のロジックを否定したいときに、人格の粗探しをしたくなるのです。

また、「人格(特にスペック)を根拠にロジックを肯定すること」には「権威主義(または「権威に訴える論証」)」という別名があります。

そして、権威主義で考えることは日本では普通です(「正しい」と見なされている)。誤りだと思われていないので、「それは対人論証/権威主義だ」と指摘されることもほとんどないわけですね。

この話は掘り下げると長くなるのでここまでにしますが、とにかく、権威主義は対人論証の一種であり、誤りです。ここを間違えないようにしてください。

この点に関して詳細を学びたい方は、以下の書籍を読んでください。

注意点②:乱立する訳語

この「権威主義は誤りである」という認識がないからか、人格を根拠にする行為には以下のように、意味合いが異なるさまざまな呼び名が存在します。

  • 否定の文脈でしか使えない
    • 人格攻撃・人格攻撃論法
    • 人身攻撃
  • 肯定・否定の両方で使える
    • 人格に訴える論証・人に訴える論証
    • 人格論法
    • ただし、先述の理由により肯定の文脈で使われることは稀

これらはすべてラテン語の「argumentum ad hominem(英語だと”argument to the person”)」の訳語なのですが、見てのとおり、日本語ではロジックを否定する文脈でしか使えない訳語があります。原語にそのようなニュアンスはないので注意してください。

個人的には、これらの呼び名はロジックを否定する文脈だけに限定して、肯定する場合は「権威主義」を使ったほうが分かりやすいと思います。そんなに使う機会がある言葉ではありませんが、もし使う場合は受け手と意味が揃っているか注意してください。

対人論証の原因と対策

最後に、対人論証の原因と対策を考えましょう。原因から順に考えます。

原因

まず、対人論証をしてしまう原因は「そもそも、対人論証を誤りだと認識していない」ことでしょう。

先述のとおり、日本では権威主義で考えることは誤りであるどころか、「王道の考え方」になっています。言い換えると、日本ではロジックと人格を紐づけることが問題視されないので、対人論証が当たり前に起こるのです。

つまり、この状況の根本的な原因は「どういう考え方を『正しい』と見なすべきかを知らない」ことです。学校では正解を習うだけで、「正しい考え方」は習いませんからね。ここに根本的な問題があります。

対策

対策としては、対人論証を誤りだと認識したうえで、正しい考え方を学ぶしかないでしょう。

対人論証が誤りであることは、このエントリーですでに説明しました。正しい考え方については以下のカテゴリーを参考にしてください。

以上、対人論証について説明しました。

これ以外の誤型については、以下のエントリーにまとめています。こちらも参考にしてください。

Footnotes

  1. なお、ここでの「誤り(非合理)」とは「考え方として正しくない」という意味であり、「結論が間違っている」という意味ではありません。