客観的な根拠とは|「客観的」とはどういう意味か
Daisuke Shoka

このエントリーでは、客観的な根拠について学びましょう。これが妥当な根拠を構築する上で最も基本的で重要なポイントです。しっかり押さえてください。
なお、このエントリーでフォーカスを当てるのは「客観的」という言葉の意味です。「根拠」という言葉は理解できているという前提で話を進めるので、もし「根拠」の理解が曖昧な人は、先に以下のリンクを読んでおいてください。
「根拠」とは|なぜ根拠が必要なのか

では始めましょう。
「客観的」とは

まずは、「客観的」という言葉の意味を明確にしましょう。辞書には以下のように書かれています。
1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。⇔主観的。
2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「客観的な意見」「客観的に描写する」⇔主観的。
ただ、これでは「客観的であるとは、主観的ではないこと」と言っているだけのようで、よく分かりませんよね。
さらに言うと、この定義には大事なことが書かれていません。日本語の実態としては、「客観的」という言葉は「正しいのはこっちだ」という意味で使われています。
たとえば、「客観的に考えて」という表現は、「とにかく、正しいのは私なんだけど」という意味で使われることがほとんどです。このとき、「客観的」という言葉は単に自分の正しさを補強するための枕詞として使われており、そこに具体的な意味はありません。同じことが、「論理的」、「合理的」、「科学的」といった言葉にも言えます。多くの人は、これらの言葉の意味や違いを考えてはいません。
ということで、このままの定義では足りません。今は「正しい(根拠が妥当である)」ことの条件として「客観的である」という言葉を考えています。もう一歩踏み込んだ定義を採用しましょう。
客観的であるとは、知覚できることに基づいているさまです。「知覚」という言葉については後から詳しく説明しますが、要するに見えることか聞こえることだと考えてください。ロジカルシンキングを行う上では、これを「客観的」という言葉の意味だと考えて問題ありません。
客観的:知覚できることに基づいているさま
反対に、主観的であるとは、知覚できないことに基づいているさまです。これもセットで覚えてください。
主観的:知覚できないことに基づいているさま
具体例で確認しておきましょう。次の文のうち、どちらが客観的でしょうか?
- このケーキは美味しい。
- 「このケーキは美味しい」と、100人のうち95人が答えた。
①は主観的で、②は客観的です。
まず、「美味しい」ということは知覚できません。ケーキのどこをどのように眺めても、見えるのはクリームやイチゴだけで、「美味しい」ということは存在していないからです。「美味しい」とは感じることであって、これを直接知覚することは不可能です。よって、①は主観的な言説です。
一方、「誰かが『美味しい』と答えたこと」は知覚できます。その発言を耳で聞くなり、アンケートに答えた結果を目で見るなりです。よって、②は客観的な言説です。
このように、「見えるか/聞こえるか」という視点で判断しましょう。
知覚と思考
多くの人にとって「知覚」という言葉は聞き慣れないと思います。もう少し掘り下げておきましょう。以下のスライドを見てください。

このスライドは、私たちが言葉にすることを大きく2つに分けています。私たちの頭の外にあることと、頭の中で起こることです。
まず、前者を「知覚」と呼ぶことにします(厳密には「知覚できること」ですが)。
知覚:頭の外にあること
いくつか、知覚できることの例を挙げておきます。
- 他者の行動や発言
- 数値データ
- 自然現象や動物の行動
これらはすべて、あなたの頭の外に存在していることを確認してください。そして、あなたはそれらを目か耳を使って知覚します。
次に、「頭の中で起こること」を「思考」と呼ぶことにします。
思考:頭の中で起こること
思考の例は、以下のようなものです。
- あなたが考えたこと(狭い意味での「思考」)
- あなたが感じたこと(いわゆる「感情」)
- 義務・必要(XXするべきだ/しなければならない、という類の言説)
- 能力(XXできる、という類の言説)
これらはすべて、あなたの頭の中で起こったり、理解されたりすることです。言い換えれば、これらのことを直接知覚することはできません。たとえば、「XXしなければならない」という「義務」は、目で見ることはできませんよね。
知覚と思考を切り分ける理由は、他者との共有しやすさが違うからです。知覚できることは、他者にも知覚させれば一瞬で共有できますが、思考はそうはいきません。後述しますが、これは「正しさ」というものを考える上での重要なポイントになります。
なお、当サイトでは、知覚と思考の線引きを厳密にはしません。
「どこまでが知覚で、どこからが思考か」というのはとても難しい問題で、哲学や認知心理学の一大テーマになっています。
たとえば、上のスライドでは「赤いペンがある」という言説を知覚の例として挙げています。しかし、厳密に言うと、私たちが知覚しているのは「赤い円筒形の物質」であり、これを「ペン」だと解釈しているのは頭の中です。では、「赤いペンがある」を思考(頭の中で起こること)に分類すべきかというと、それはどうしてもしっくりきませんよね。
そういうわけで、このテーマはとてつもない深さを秘めています。ただし、ロジカルシンキングを行う上では「頭の外か、内か」というざっくりした分類でだいたい上手くいくので、一旦ここを深掘りするのはやめましょう。興味がある人は、哲学や認知心理学を学んでみてください。
客観的な根拠の使用例
話を戻して、実際のロジックで客観的な根拠を使う例を確認しておきましょう。まずは、根拠が主観的であるために切り崩されてしまうケースからです。

X社とY社、どちらにポスターのデザインを発注するべきだろうか?

X社にするべきだよ。X社のデザインの方が優れていると私は思うな。

「X社のデザインの方が優れている」というの君の主観的な意見だろ。他の人は、Y社の方が優れていると言うかもしれない。
「X社のデザインのほうが優れている」ことは知覚できません。「優れている」というのは、「美味しい」と同じように判断です。それを見ることはできません。そこをクマに批判されてしまいました。客観的な根拠に変えてみましょう。

X社とY社、どちらにポスターのデザインを発注するべきだろうか?

X社にするべきだよ。私の周りの50人にアンケートした結果、30人がX社のデザインの方が好きだと答えたよ。

君の言うとおり、X社にするよ。
「50人にアンケートした結果、30人がX社のデザインのほうが好きだと答えた」ことは知覚できます。このように根拠を客観的にすることで、主張を通すことができました。
2つの根拠の違いが「知覚できるかどうか」にある点を確認しておいてください。
なぜ客観的な根拠は妥当なのか
なぜ、客観的な根拠は妥当なのでしょう? 言い換えると、なぜ、客観的な根拠は批判に耐えぬけるのでしょうか?
この問いには、「正しさ」というものを考える上での重大なヒントが潜んでいます。順に考えていきましょう。
同時に知覚するケース
まず、最も簡単なケースから説明します。以下の写真を見てください。

このとき、私が「ペンが1本ある」と述べたとします。この言説は正しいでしょうか?
もう、どうしようもなく正しいですよね。あなたが「モノが分裂して見える病気」にでもかかっていないかぎり、この言説を「正しい」と認めるしかないはずです。
このように、あることを一緒に知覚して、それをありのままに述べれば、それは正しいです。人は同じモノを同じように知覚しているからです1。
同じことを知覚して、それをありのままに述べれば、それは正しい
同時には知覚できないケース
先に進みましょう。実際の議論では、先ほどの例のように同時に知覚することはまずありません。ロジックを作る人だけが知覚します。
こうなると、同時に知覚した場合ほど、万全の正しさを期待することはできなくなります。知覚してない側の人からすると、知覚した事実そのものや、その処理を疑う余地が残るからです。具体的には以下のようなものです。
- 嘘を疑う
- 認知能力(見間違いや聞き間違い)を疑う
- 処理能力(入力ミスや計算ミス)を疑う
例を見てみましょう。

X社とY社、どちらにポスターのデザインを発注するべきだろうか?

X社にするべきだよ。私の周りの50人にアンケートした結果、30人がX社のデザインのほうが好きだと答えたよ。

本当にアンケートしたの? 嘘じゃない?
この場合は嘘を疑っていますが、以下のように処理能力を疑うことも可能です。

本当にX社に30票入ったのかな? 集計間違いじゃない?
このように、同時に知覚していないケースでは、知覚した人の嘘や処理能力を批判する余地が残ります。
建設的に考えるための基本マナー
さて、このような批判をしてもよいのでしょうか?
結論を先に述べると、原則としては、他者の知覚した事実、およびその処理を疑うべきではありません。これは大事なことなので、「ロジカルシンキングの基本マナー」としておきます。
ロジカルシンキングの基本マナー:原則として、他者の知覚した事実、およびその処理を疑わない
ただし、このマナーにはいくつか注意点があります。
まず、これはあくまでもマナー(原則として従うべきこと)であり、ルール(絶対に従うべきこと)ではありません。あまりにも受け入れがたいロジックが飛び出してきたときには、このかぎりではないということです。
最終手段として他者の知覚した事実を疑う権利は、私たちに常に残されています。ここで言っているのは、「嘘や処理能力を疑う批判を乱用するべきではない」ということです。
また、このマナーを適用するべきなのは、あなたが「この人とは建設的に考えたい」と思う相手だけです。「世の中のあらゆる情報を信用しろ」という意味ではありません。
世の中には嘘や間違いが溢れかえっている以上、ここから信用できる情報を取捨選択するのはあなたの責任です。無条件に何かを信じるのはやめましょう。
なぜ他者の知覚した事実を疑わないのか
なぜ、他者の知覚した事実を(マナーとして)疑わないのでしょうか?
このマナーが生まれる理由はシンプルで、他者の知覚した事実を疑うと、議論が成立しなくなるのです。疑うのが嘘でも認知能力でも処理能力でも結論は同じなので、まずは嘘に絞って話を進めていきましょう。
先ほどの例をもう一度見てください。

X社とY社、どちらにポスターのデザインを発注するべきだろうか?

X社にするべきだよ。私の周りの50人にアンケートした結果、30人がX社のデザインのほうが好きだと答えたよ。

本当にアンケートしたの? 嘘じゃない?
まず、ほとんどの場合、パンダは「自分が嘘をついていないこと」を証明できません。口頭で質問した場合は、いかなる記録も残っていないでしょう。たとえアンケート用紙が残っていたとしても、それに答えたのが(パンダではなく)本当に周りの人であることを証明するには、回答中の映像が必要です。こんなことをする人はいません。
では、クマが「パンダが嘘をついていること」を証明できるかといえば、これもほとんど不可能です。刑事事件か一部の研究者の世界2でもないかぎり、証拠集めのような真似はできません。
つまり、嘘を疑ったところで、答えは出ません。嘘を疑った時点でクマとパンダが感情的にこじれることだけは間違いないので、これでは疑うだけ無駄です。
さらに言えば、「パンダは本当にアンケートを実施したのか?」という論点は、本当に考えたい「X社とY社、どちらにデザインを発注するべきだろうか?」という論点からかけ離れています。こんなところから考えるのはリソースの無駄でしかありません。
結局、嘘を疑った時点で、もう議論にならないのです。根拠の妥当性を検討することはできません。それはすなわち、どんな主張も正しいとは認められない世界、他者と考えることが不可能な世界です。
ロジカルシンキングと嘘
ということは、建設的な議論をするためには「嘘をついている人はいない」という前提を置くしかありません。嘘はつかないし、他者の嘘を疑わないのが、ロジカルシンキングを実践する上でのマナーになるわけです。先ほどの基本マナーを、嘘に絞って言い直しておきます。
建設的に考えるために、嘘はつかないし、他者の嘘を疑わない
これはもはや、ロジカルシンキングのマナーというより、社会生活を営む上での基本マナーです。あまりに当たり前なため、学校で習ったりもしません。しかし、ここでもう一度、明確に意識してください。嘘をつくことも、嘘を疑うこともダメです。
特に、嘘を疑うこともマナー違反であることは、あまり意識されていません。
私はこれまで、にわかには受け入れがたいロジックに直面したときに「嘘じゃないの?」と言ってしまう人を何人も見ました。これは単に「うっそー!(信じられない)」という意味なのだと思いますが、言葉の上だけでも嘘を疑うことは、真面目にロジックを作っている人に対する最大級の侮辱です。ロジカルシンキングを使って真剣に考えているときには、うかつに「嘘」という単語を使うのはやめましょう。
嘘がバレたらどうなるか
もちろん、嘘をつけないわけではありません。実際のところ、難しい論点を必死に考えている際には、「このデータさえなかったことにできれば、主張にスムーズにつながるのに」といった誘惑にかられることはあるでしょう。
そして、周りは「あなたは嘘をつかない」という前提を置いているため、その嘘はバレない可能性が高いです。
しかし、これだけは覚えておいてください。「嘘を疑わない」というのはあくまで紳士協定であり、あなたがあまりに嘘くさいロジックを展開すれば、あなたの嘘を疑う人は出てきます。そして、もしあなたが嘘をついており、その嘘がバレたら、あなたはもう二度と「考える」という行為の一部にはなれません。
先述のとおり、「嘘をついている人はいない」という前提は、建設的に考える上での絶対条件です。ここに嘘つきが混ざると、あらゆることを疑う必要が生じ、集団で考えることは不可能になります。ネット上の議論を見れば明らかでしょう。
よって、きちんと考えようとする業界では、嘘に対する罰は最大級のものが設定されています。裁判で嘘をつけば、偽証罪で犯罪者です。研究者の世界で嘘(データ捏造)がバレれば、永久追放です。ビジネスの世界では明確なルールはありませんが、二度と信用してもらえなくなることは間違いありません。
嘘をついたことが公になったら、もう二度と、誰かと考えることはできなくなる
これは本当に大事なことなので、別の言い方もしておきます。間違った主張を導いてしまうことはセーフですが、嘘をついたら一発で永久追放です。退場とか出場停止とか、そういう生易しい罰ではありません。
嘘のない根拠から間違った主張を導くことは、まったく問題ありません。というより、それを避けることは不可能です。人間である以上、ずっと正しい主張を導き続けることなど、できるわけがありませんよね。
嘘をつくのは、これとは次元の異なるレベルの振る舞いです。これは難しい論点を真剣に考えているすべての人の善意を踏みにじる行為であり、正当化することはできません。
しかも、この行為はリカバリーができません。「私は過去に嘘をついたが、今の私は嘘をついていない」ことは証明できないからです。一度でも嘘をついたことが公になってしまったら、もう信用してもらえません。これからも「考える」という行為の一部でありたいなら、嘘だけは絶対にやめましょう3。
認知能力や処理能力を疑う場合
ここまで、嘘に絞って話を進めてきたので、認知能力や処理能力を疑うケースをフォローしておきます。
まず、認知能力を疑う場合は、嘘と同じ結果になると考えてよいでしょう。つまり、もう議論にはなりません。「見間違い/聞き間違いじゃないの?」という批判は、批判される側にとっては難癖にしか聞こえません。こんなことを言ってくる相手と議論する気にはならないですよね。
処理能力を疑う場合はどうでしょうか。人間なので、入力ミスや計算ミスは誰でもします。誰でもすることなのだから、それを疑ってもよいでしょうか? こういう批判です。

X社とY社、どちらにポスターのデザインを発注するべきだろうか?

X社にするべきだよ。私の周りの50人にアンケートした結果、30人がX社のデザインの方が好きだと答えたよ。

本当にX社に30票入ったのかな? 集計間違いじゃない?
結論としては、これも原則としては疑うべきではありません。
嘘と同じで、パンダは入力ミスや計算ミスがないことを証明できません。記録が残っていればクマが同じ処理を繰り返す(つまり、入力や計算をやり直す)ことは可能ですが、これはパンダの能力の完全否定を意味します。感情的にはしこりが残るでしょう。
また、普通はそんなリソースはありません。現実的にこれが可能なのは、チーム内の上司と部下のような場合に限られるでしょう。
次に、こちらが本質的な理由ですが、処理能力を疑うことと、嘘を疑うことの線引きはできません。
たとえば、「見なかったことにする(嘘をつく)」ことと、「間違ってデータを消す(処理を間違える)」ことは、過程は違いますが、あるはずだったデータが消えるという点で、結果は同じです。
ということは、「人間なのでミスはするから、ミスは嘘と違ってセーフ」という扱いにすると、「間違ってデータを消したことにする(本当は嘘だが、ミスだということにする)」ことはセーフになってしまいます。それだと、結局は嘘がつき放題になってしまいますよね。
よって、原則として処理能力も疑いません。これは嘘を疑うのと変わらないからです。
言い換えると、処理を間違えることは、嘘をつくのと同レベルの罪です。厳しいかもしれませんが、他者からすると嘘とミスの判別がつかない以上、仕方ありません。
知覚した事実の処理を間違えることは、嘘をつくのと同じレベルで相手の信頼を裏切る行為である
つまり、嘘をつかないのと同じレベルの決意で、処理の間違いを防がなければなりません。うっかりExcelの計算式を間違えたことは誰でもあると思いますが、これを本番でやってしまうと、誰もあなたのことを信用できなくなります。注意してください。
主観 vs 客観
ここまでの話をまとめましょう。普通の状況であれば、客観的な言説は、その正しさが疑われることはありません。同時に知覚すれば無条件に正しくなりますし、同時に知覚していないことでも、嘘や処理能力を疑わないのがマナーだからです。
つまり、客観的な言説は、その正しさが盤石です。ダイヤモンドのようなものですね。よほどのことがないかぎり、ここが批判のハンマーで壊されることはありません。
これほど圧倒的な「正しさ」は、知覚できるからこそ生まれることです。知覚できないこと、つまり主観的なことに対して、これほど強固な「正しさ」を期待することはできません。
例として、先ほどの写真をもう一度見てください。

この写真を見て、私が「このペンは書きやすい」と述べたとします。これは主観的な言説ですが、あなたはこの言説を正しいと思うでしょうか?
この場合、この言説を正しいと思うのは①同じ種類のペンを使ったことがあり、②書きやすいと感じた人だけです。客観的な言説(「ペンが1本ある」)のような万全の「正しさ」は、どこにもありません。知覚できないことを「正しい」と認めてもらうのは、知覚できることに比べてはるかに難しいのです。
このように、客観的な言説の正しさの根源にあるのは、「知覚できる」という事実です。人間同士が何が「正しい」のかを決める際に、知覚することほどたしかなものはありません。
「正しさ」を決める上で、知覚できることほど確実なことはない
とにかく、知覚したことを根拠の根底に据えましょう。これがあなたの根拠の妥当性を高めます。
妥当な根拠を構築するためには、知覚したことを根拠の根底に据える
ただし、これは「客観的な根拠であれば、どんな主張でも支えられる」という意味ではありません。全体としての根拠が主張を支えされるかどうかは、根拠の普遍性や網羅性も含めて決まります。ここで言っているのは、「あることを知覚した」ということを述べれば、その正しさは誰もが認めてくれるということです。
また、繰り返しになりますが、客観的な根拠の妥当性を支えているのは「あなたは嘘つきではなく、認知能力や処理能力に問題はない」という、周囲からの信頼です。ここを裏切れば、あなたが妥当な根拠を構築することは二度とできなくなります。注意してください。
以上、客観的な根拠について説明しました。これが根拠の妥当性を高める上で最も重要なポイントですので、常に根拠の客観性をチェックする癖をつけてください。
さらに学習を進めたい人は
ここまで読んでいただき、どうもありがとうございました。ロジカルシンキングの学習をさらに進めたい人は、以下のエントリーに進んでください。客観的に考えるトレーニングを解説しています。
客観的に考えるためのトレーニング(例題と解答つき)
また、ロジカルシンキング関連のエントリーは以下のページにまとめてあります。こちらも参考にしてください。
ロジカルシンキングのすべて